忘れられない桜

 大学1年が終わったばかりの春休み、寮でいっしょだったF川という同級生から「いいバイトがあるぞ」ということで紹介されたのが「Aーと引越センター」大阪本社でのアルバイト。
 きけば、仕事は引越し作業、期間は引越しが集中する3月末から4月はじめの2週間、沖縄〜大阪は往復飛行機で送迎、給料は約15万円、宿舎&晩飯付きという条件で、「なんだかきつそうだな」とは思いながらも、カネの欲しかった僕はさっそくF川と応募したのでした。


 予想どおり、引越しの仕事というのは相当にきつく、最初の3日間ぐらいは身体中の筋肉が悲鳴を上げる始末。おまけに宿舎といってもただの大部屋で、仕切りも何もないガランとしたスペースに、バイト生50人ぐらいがただの雑魚寝という状態です。そんなこんなで、へたれな僕はまだバイトが始まって何日も経たないのに「身体持つかなあ・・・」などと弱気になっていたのでした。


 そんなある日の朝、引越しに向かうトラックの車中からぼんやりと外を眺めていると、それはそれは見事な一本の桜が目に飛び込んできたのです。そのたたずまいはまるでピンクの綿菓子といった風情・・・。トラックが走っていたエリアがちょうど工場街(たしか松下の本社近く)だったこともあって、灰色の工場街にたたずむその一本の桜の木が僕にはあまりに美しく、健気に感じられてならなかったのでした。
 「お前もがんばってるなあ、よし、オレもがんばるぞ」と気持ちを新たにした僕は、その日以降、だんだんと重労働にも慣れ、なんとか2週間のバイト期間を満了することができました。
 あの時、灰色の工場街でほっこりと咲いていた見事な桜を、僕は今でも忘れることができません。


 そうそう、そういえば、仕事を終えた僕たちバイト生に、同社の寺田社長(女性)が直々に手製のうどんをふるまってくれるということもありました。額に汗を浮かべながら大鍋をかき混ぜ「ごくろうさま」という言葉とともに、社長がふるまってくれたそのうどんはほんとうに美味しく、冷えた身体にしみわたったのでした。
 その寺田社長の「座右の銘」というのが、だいぶ前の新聞に掲載されていました。それは「小事には情を、大事には理性を」という言葉でした。
 引越し特化という戦略で業界にイノベーションを起こしながら、下っ端のアルバイトに手作りのうどんをふるまうことも忘れない、寺田社長らしい言葉ではないかと思います。