津輕ブログを読んでウルトラセブンを、金城哲夫を、沖縄を思う

 あらかじめのお断りですが、本日の記事はだらだらと長い上にRFCとはほとんど関係ありません。どうぞスルーしてくださいませ。

 
 今年はウルトラセブンの生誕40周年ということで、ついこのあいだまでケーブルテレビでセブンの本編をはじめ、セブン関連の番組が集中的に放送されていました(といっても僕が観たのは後述のドラマだけですが)。
 たしかにウルトラセブンという作品は、いわゆる勧善懲悪のヒーローものとはいささかテイストの異なる、独特の陰影と深みとメッセージを感じないではいられない作品でありました。だからこそ、放送から40年を経てもなお、このような特番が組まれ続けるのだろうし、個人的思い入れ込みでいわせてもらえば、セブンはウルトラシリーズのみならず日本のテレビ界が産んだ畢生の大傑作なのではないかと思っているところです。
 

 一連の生誕記念特番の中で特に僕をよろこばせたのが、NHKが'93年に放映した土曜ドラマ「私が愛したウルトラセブン」全2話の再放送。これは1968年当時、セブンに係わった「制作者や出演者の青春群像を描いた(@Wikipedia)」名作で、僕はこのドラマでウルトラセブンの生みの親が沖縄出身の金城哲夫というプロデューサー兼シナリオライターであることをはじめて知ることとなりました。


 有名な話ですが、たとえば合体ロボットの元祖ともいえる「キング・ジョー」は金城哲夫の苗字がそのまま由来となっているし、頭のでかい「チブル星人」はそれを意味する沖縄の方言そのままです。
 かように金城哲夫という人はあそび心というか茶目っ気たっぷりの人だったらしく、さりげなくそれらを番組に織り込むと同時に、一方で復帰前の沖縄と本土の分断、両者が歩んできた歴史、金城氏のウチナンチュウとしてのアイデンティティを作品に投影しないではいられませんでした。
 たとえばシリーズ屈指の名作といわれている「ノンマルトの使者」の中で、金城哲夫はアンヌとノンマルトの使者である少年(真市)に次の会話を交わさせます。


アンヌ  「ノンマルトって何なの?」
真市   「本当の地球人さ」
アンヌ  「地球人?」
真市   「ずっとずっと大昔、人間より前に地球に住んでいたんだ。でも、人間から海に追いやられてしまったのさ。人間は、今では自分たちが、地球人だと思ってるけど、本当は侵略者なんだ」
アンヌ  「人間が、地球の侵略者ですって?」
真市   「……」
アンヌ  「まさか……まさか……」
真市   「………」
アンヌ  「君……ノンマルトなの?」
真市   「人間はずるい、いつだって自分勝手なんだ。ノンマルトを海底から追いやろうとするなんて……」
アンヌ  「バカね。真市君は人間なんでしょ。だったら人間が人間のことを考えるのは、当然のことじゃない。海底は私たちにとって、大切な資源よ」
真市   「でも、ノンマルトには、もっともっともっと大切なんだ!!」
アンヌ  「わたしは人間なんだから人間の味方よ。真市君もそんなこと言うべきじゃないわ!」


 この点「DREAM/INGブログ」によれば、


(以下引用)
 かつて地上に住んでいた先住民族ノンマルトを地上人が絶滅させる、という物語はウチナンチュウ(琉球人)とヤマトンチュウ(日本人)との確執をモチーフとしたと解釈されています。放映当時の沖縄の本土復帰直前という歴史的な意味と合わせて考えても、国策に翻弄されつづけた沖縄の人々の心情を託した作品と考えられます。
 この物語ではウルトラセブンは、地上人サイドにたってノンマルトと闘う、ある意味悪役として描かれています。私自身はノンマルトの使者として登場する少年(実はすでに亡くなっているという設定)に強く共鳴し、子供心になんともいいようのない悲しさ、ウルトラセブンを含めた地上人(自分もなんだけど;)への怒りを感じた作品でした。
 “なにが善でなにが悪か”なんて、立場が変われば簡単に変わる、そんな複眼思考への啓示。よくある勧善懲悪モノのスーパーヒーローではなく、セブンをより人間くさく、悩める存在として印象づけた作品。だからこそ、セブンはより身近なリアルな存在として感じられるのだと思います。
 ヒーローなのに「ゆらぎ」を持つセブンの葛藤は、デビルマン仮面ライダーに通じるものがありますが(元々「悪」なのに正義のために闘う)、前者が自分のアイデンティティにはゆらぎがないのに対し、セブンのアイデンティティはどこか曖昧な部分があります。それは彼が宇宙人で、なのに地球人の姿を借りることで、地球人化していき、自らの立脚点を希薄化させてしまったからかもしれません。
 自分の表現したいことと、作品世界の基本的前提(勧善懲悪)に矛盾を感じつづけ、また本土と沖縄の間で悩み続けた金城さんの写し身のように。
(引用終わり)


 前述したドラマ「私が愛したウルトラセブン」のラスト、アンヌ(田村英里子)は金城(佐野史郎)にこう言います。
「ウチナンチュウであろうとヤマトンチュウであろうと、金城さんは金城さんにかわりないじゃないの」
 そしてセブン本編の最終回、ダンがアンヌに自分がウルトラセブンであることを打ち明ける場面、「びっくりしただろう」とアンヌを気遣うダンに対するアンヌの言葉・・・、
「ううん、人間であろうと、宇宙人であろうと、ダンはダンにかわりないじゃないの。たとえ、ウルトラセブンでも・・・」
 この胸を打つ名場面に金城氏が伝えたかったメッセージの結実を感じるのは、おそらく僕だけではないでしょう。


 ちなみに、この場面にいっそう深さとかなしみを湛えさせているのがBGM。シューマンのピアノ協奏曲の第1楽章が、ダンのアンヌへの告白場面からセブンが満身創痍の体で怪獣を倒すまで、ずっとバックに流れ続けているんです。おそらくこの曲は金城氏が愛聴してやまなかった曲なのでしょう。そうでなければあんなに重要な場面で使われるはずがありません。
 

 金城哲夫氏は、1976年2月26日、泥酔状態で自宅(後述の「松風苑」の敷地内。現在資料館)2階の仕事場へ直接入ろうとし、屋根の上で足を滑らせ転落、脳挫傷のため死去。享年37歳(@Wikipedia)。
 もし彼が今も生きていたら今の状況をどう考えたでしょうか。その意味では、彼のあまりに早すぎる死が残念でなりません。


 以上、津輕ブログの10/11付のエントリーをつらつら読みながら、なぜかセブンと金城氏のイメージが喚起され、さらに酔った勢いで駄文を綴ってしまった次第です。やたらと引用の多い長文お許しくださいませ。