「地の気」と黙想の家

 春合宿でお世話になった「黙想の家」は、つくづく「地の気」のいいところでありました。ちなみに「地の気」という知見は僕のオリジナルではなく、僕の愛読している内田樹氏がブログの中で述べていた知見で、たとえば次のような感じをいいます。


(以下内田ブログから引用) 
●「どこに住むか」ということは、とてもたいせつなことだ。家賃や駅からの距離や間取りや日当たりというようなことは、ほんとうに家の快適さを決める条件の一部、それもまったく副次的な条件に過ぎない。いちばんたいせつなのは、その場所が「よい気」を持っていることである。土地には地脈というものが流れている。人間の身体に気脈や経絡や勁道が流れているのと同じである。よい地脈が流れているところに暮らすと、その地の気に身体に感応して、たいへんに気分がよろしい。悪い土地に暮らすと、(それがどれほど交通至便であろうとも、日当たりがよくても)、その土地の発する微弱な瘴気に当たって、心身がだんだんと損なわれてくる。ふつうは、そういう土地は足を踏みれたところで「なんとなく、やだな」という感じがするものである。


●雨の中を六本木へ。六本木って、来ることないなあ。地の気が悪いからね。おお、あれが六本木ヒルズか・・・禍々しい建物だな。巨大な墓石みたいだぜ。ゴジラが最初に壊しそうだな。
(引用終わり)

 
 この点、「黙想の家」のたたずまいを脳裏に蘇らせれば、まず建物自体とても簡素だったし、裏には丹念に手入れされた芝生の植わった庭があったし、その向こうには青みをたたえた東シナ海がどこまでも広がっていたし・・・。さすがカトリック教会関係の施設というだけあって、ホーリースポットとでもいうべき安らぎと落ち着きに満ちた場所でありました。ああいう地の気のいいところに家を構え、東シナ海に沈む夕陽を眺めながら酒を飲んだり、仲間と夜通し音楽を奏でたり・・・、そんな生活ができたらどんなに幸せだろうと僕は夢想せずにはいられないのであります。