吉田秀和氏の叙勲を祝う

 今日は、先日、文化勲章を叙勲された音楽評論家、吉田秀和氏の話題です。はっきりいって、ほとんどRFCとは関係のない話題ですが、「音楽ネタ」ということで、どうかご容赦ください。
 学生時代から現在にいたるまで、氏の著作を愛してやまない僕としては、未だこの偉大な「趣味人」をもしかしたらご存知ない方のために、どうしても紹介しないではいられないのです。
 しょせん、フォークもロックも歌謡曲も、そしてクラシックも同じ根っ子に咲いた違う花・・・、といっては乱暴にすぎるでしょうか。たしかにクラシックについては、どうしてもアカデミックでペダンティックなイメージがあるものだから、たいていの人は「遠慮します」って感じだと思いますが、ガマンして聴き続けていると、いいんだなぁ、これが・・・。僕の場合、大学4年(?)のとき、親友からむりやり聴かされ続けているうちにはまってしまった「隠れクラシックファン」なのであります。今でも、たとえばモーツァルトの「クラリネット協奏曲」を聴くと、親友が住んでいた北口前「ちはら荘」の部屋の様子と、窓から見上げた夏空の風景が、あざやかによみがえってくるのです。いくつかのクラシック音楽作品は、フォークやロックと同様、僕にとってのエバー・グリーン・ミュージックです。
 ということで、以下、氏の評論作品からいくつか「サワリ」だけご紹介します。知的で上品で抑制のきいたフレーズの数々に、氏の著作を読みたくなること請け合いです。


○音楽について
 ぼくは、音楽がすきだった。いってみれば、音楽は、ほとんど数学的思考の厳密と透明をもちながら、心情と感覚の世界を通じて、陶酔と忘我を実現してくれるものだ。音楽を注意ぶかくきくとき、ぼくらの精神はいつもよりはるかに目覚めているが、同時に目覚めていればいるほど、ぼくらの陶酔はふかくて、全身的だ。(「主題と変奏(中公文庫)」8ページ)


モーツァルトクラリネット協奏曲について
 ことに、第一楽章は、管弦楽がはじまった時は、それと気づかないうちに、踊りのリズムにのってしまう感じだが、少ししてクラリネットが入ってくると―A管特有の哀愁をおびた響きのせいもあるが、音楽へ射しこむ陽射しの色が変ってくるのが感じられる。心はたしかに踊っている。しかしそれは、よろこびのためではない。(「私の好きな曲(新潮文庫)」48ページ)


ベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲について
 弦楽四重奏は、音楽のもっとも精神的な形をとったものである。あるいは精神が音楽の形をとった、精神と叡智の窮極の姿が弦楽四重奏である。それはまた、最もよく均衡のとれた形でもって、あいまいなところが少しもないまでに、ぎりぎりのところまで彫琢され、構成され、しかも、それをつくりあげるひとつひとつの要素が、みんな、よく「歌う」ことを許されている―いや歌っていないとだめな形態である。明智の限りまで考えぬかれ、しかもすべてがよく歌い、しかも部分と全体の間で完璧な均衡が実現されているもの。それが弦楽四重奏である。(「私の好きな曲(新潮文庫)」10ページ)


モーツァルトのジュピター・シンフォニーについて
 何とも素朴な―どうも時代おくれした感覚で申訳ない次第だが、このたかがg―fis―fの下降ぶりが、ひどく胸にしみた。ここの所だけ、譜面のまぶしい位の白さが眼にしみた・・・(略)何と簡単で、しかもロマンティックな魅惑にみちみちていることだろう。バスの歩み!音階を下りてくる、下りてくる、胸を小きざみに波うたせながら。ためらいはあるけれども、疑惑はない。そうして、この最後の小節で初めのふしに戻ってからは、安定した大地の上で踊るその足どりは軽いけれども、これ以上安定性のある晴れやかさはないほどだ・・・(「主題と変奏(中公文庫)」68ページ)