コードを知らないギタリスト

 僕が4年の時に入部してきたヘヴィメタ・ギタリスト・O野の「超絶技巧」はすごかった。彼の図体は、「アルプスの少女ハイジ」に出てくる「ヨーゼフ」のように暑苦しかったけど(ごめん)、僕なんぞには一生弾けないような速いパッセージやリフなどを涼しく弾きこなすのにはたいそう驚いたものです。
 さらに驚いたのが、ある時、彼に「そこGm弾いてくれよ」のようなコードをオーダーしたところ、たいへんに情けない顔で、「ぼ、ぼく、コードを知らないんですぅぅ」と述べたこと。う〜ん、これは考えようによってはすごいことである。不思議なことである。コードを知らないギタリストが存在することが僕にはとても新鮮でした。
 彼のコードの「知らなさ」というのは、たとえばビートルズのメンバーが誰ひとり楽譜を読めなかったとか、J・レノンがある評論家に「“ノルウェイの森”のミクソリディアン・スケールがいい味出してますね」などと誉められ、「それは鳥の名前か何かい?」とのたまったとか、そのような「知らなさ」とは質が違うような気がするのです。
僕は、別にコードを知ってるギタリストが偉くて、知らないギタリストは偉くないというような単純な話しをしたいのではなくって、ここには、ギターという楽器に対する、あるいはバンドにおけるギターの立ち位置について、根本的な考え方の違いがあらわれているように思うのです。
乱暴な言い方をすれば、ブラックモアになりたくてギターを弾くのか、D・パープルになりたくてギターを弾くのかという違いになるのかもしれないし、ギターをモノフォニックにとらえるか、ポリフォニックにとらえるかということになるのかもしれません(あぁ、ワケわかんねぇ)。
 もちろんコードネームは完全ではありません。ド・ミ・ソ・シの4音を聴いて「Cmaj7」という人もいれば、「Am7add9」という人もいるでしょう。中には「Em aug」なんて変態的なことをいう人もいるかもしれません。だけど、少なくとも、コードはバンドで音楽をやる人間にとっては共通言語のようなものなのですから、やっぱり覚えておいた方がいいと思うのです。具体的には、歌詞とコードネームが書かれた紙をポンと渡された時、じゃっこじゃっことアコギでバッキングをするとか、山にキャンプにいったとき明星の付録についていた「ヤンソン(古い!)」を見ながら一晩中みんなの生オケとして貢献するとかいうこともできません。
 たぶん、コードを知らないギタリストが誕生するのは、あくまで仮説ですが、いわゆるバンド譜(タブ譜)から入ったギタリストが陥る「罠」ではないかと思います。だから特に後輩諸君、タブ譜ばっかり見ていちゃだめだよ。AmとAm7の微妙な肌理の違いを聴きわけられるようにならなくちゃだめだよ。コードを知らないとギターを弾くうれしみを半分ぐらい放棄したも同然なんだってば。